春にして君を離れ アガサ・クリスティー
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4月の読書ログ課題図書『春にして君を離れ』はいかがでしたか。本作品を含めアガサ・クリスティー作品を数多く日本の読者に届けているのが早川書房のクリスティー文庫です。今回は第一編集部の編集者川村均さんにお話を伺いました。

―アガサ・クリスティーの作品には、本作を含め非ミステリの作品が6作ほどあって、それらはメアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義で書かれ、当時はクリスティーの別名であることは隠されていたといいます。人気作家の名前を背負わずに、クリスティーにとってはどのような位置づけの作品だったと考えられますか?
殺人こそありませんが、現代ではこの作品は非ミステリという感じはしないですよね。彼女の自伝によると、前から描きたくて長い間頭の中で揉んでいて、1944年に発表する時には僅か3日間で書き上げたそうです。ミステリかどうかはさほど意識する必要がなかったのだと思います。
本作品の十数年前に、メアリ・ウェストマコット名義で『愛の旋律』(1930年)を発表しています。アガサ・クリスティー名義だと読者が殺人事件だと思ってしまい、それは期待する読者に申し訳ないということで違ったペンネームを使用したようです。メアリはクリスティーの本名のセカンドネームの1つ。ウェストマコットははっきり明言されていませんが、孫によると彼女の遠い親戚の名前のようです。
当初本人はクリスティーであることを明らかにするつもりはなく、25年間は伏せておくという約束を出版社と交わしていました。ただ、知り合いの作家には「あなたなのでしょ?」と勘付かれたようで、結局は25年を待たずしてバレました。本作の頃は既にバレてたようですが、その後も『暗い抱擁』『娘は娘』『愛の重さ』でこのペンネームを使っています。
よく自伝的な内容だから別名義なのではと言われますが、この作品はそこまで自伝っぽいかと言われればそれ程でもありません。小説は多かれ少なかれ作者の知識や経験が反映されるものですが、クリスティーの自伝的要素が色濃く反映されているのはメアリ名義の2作目『未完の肖像』くらいです。
他説として、出版社に嫌われたという説もあります。営業上、クリスティー=殺人事件のミステリ作品というブランディングがされており、別ブランドとして売り出していこうという意味合いも強かったのだと思います。自伝的かどうかというよりは、営業上の理由から別名を使っていた部分が大きいと推測します。

―同様に、この作品とクリスティー自身の人生にはどのような関係があると思われますか?失踪事件や離婚経験などの影響が少なからずあって、推理小説というジャンルを超えて伝えたい思いを表現したということなのでしょうか?
舞台となる中東イラクのバクダッドは、クリスティーが実際によく行き来していた場所です。最初の夫であるアーチボルド・クリスティーと別れ、二人目の夫マックス・マローワンと出会ったのが、バクダッド旅行だったようです。彼は考古学者で毎年のように中東へ行くため、クリスティーも沢山訪れています。オリエント急行等はこの地で書かれていて、彼女にとってはまさにホームグランドのような場所。中近東を舞台にした作品も多く、本作主人公ジョーンのように、実際に足止めをくらった事もあったのではないでしょうか。
当時のイラクはイギリスの植民で、彼らが休暇を過ごす社交場でした。ですから、それ程遠くへ行くという感覚ではなかったようです。英語が通じて、大きい顔をすることができたのがあのエリアだったのでしょう。

―さらに本作品が発表された1940年代のイギリスはチャーチルが表舞台に立ち、第二次世界大戦の影響が大きかった時代です。本作は戦争とは別世界であり、主人公のジョーンの心の動きには戦争による影響の影は見受けられません。本作を含め時代背景が文学に与えた影響は大きくはなかったのでしょうか?
この作品は戦争の前からクリスティーが寝かせていた題材なので、さほど大きな影響はないと思います。彼女は従軍看護婦をしていた経験から、第一次世界大戦の影響の方が大きいです。あの時代に戦争と無関係には生きることはできませんからね。
最初の夫アーチボルドは従軍していますし、エルキュール・ポアロだってそもそも戦争難民です。ベルギーで警察官として活躍した後、第一次世界大戦中にドイツ軍の侵攻によりイギリスに亡命。イギリスで友人のアーサー・ヘイスティングズ大尉と再会し、数多くの殺人事件を解決するという設定です。戦争により亡命し、そのまま生活し続けること自体があまり珍しい話ではなく、ごく当たり前に戦争の影響があったのだと思います。
今と違ってミステリに社会性を持たせるという傾向はあまり見受けられず、謎解きゲームのような感覚が当時の作品にはあったのだと思います。

一時は新しく生まれ変わったような気持ちになったジョーン。しかし、結局は元の通りの彼女を選択する。人が変わることの難しさを、痛いほど見せつけられました。難しいからこそ”勇気”を持つことの大切さを教えてくれたのでしょうか?
クリスティーの腹の内は分からないし、自伝にもこの作品についてはそこまで語られていません。自身が11日間失踪していた事件の影響もあるかもしれないけど、本人が一切触れていないので、正直わかりません。ただ、離婚なのか再婚なのかは分かりませんが、彼女自身がチェンジを求めていたのはあったのだろうなと。
彼女はあの時代にある程度の階級に育った人間としては、異質とも言える自由奔放な女性です。社交界で出会った婚約者がいたにも関わらず、色男の軍人と出会い駆け落ち同然で結婚してしまいます。そんな夫との間に娘がいたにも関わらず離婚。その後、14歳年下の考古学者と出会い再婚。今の時代で考えても、それなりに波乱万丈な人生ですよね(笑)。
そんな彼女が、当時の女性たちにどのように受け取られていたのかはちょっと興味がありますよね。

―アガサ・クリスティーの作品を数多く手がけた翻訳家・中村妙子様のエピソードがあれば教えて下さい。
残念ながら本作を含め、私は中村妙子さんとお仕事をしたことがありません。企画の経緯も定かではありませんが、クリスティーが女性だから、女性の訳者さんにお願いするという発想もあったのだと思います。彼女や恩地三保子さんはクリスティー作品を通じて活躍の場が広がった女性翻訳家の先駆け的存在だと思います。
本作を含め、メアリ・ウェストマコット名義の作品が日本でもこれだけ多く読まれたのは、中村さんの翻訳の読み易さがあったからだと思います。ちなみに、日本ではアガサ・クリスティー名義で出版しています。
私のような編集者の仕事は、版権取得後に誰を翻訳に充てるかのブッキングから始まります。つまり、翻訳者の方々は避けて通れない大切な存在なのです。幸せなことに編集者として駆け出しの頃からクリスティー作品は数多く担当させて頂きました。当時、クリスティーを担当する訳者の方は大御所中の大御所で、加島祥造さんや田村隆一さんなど豪快な方が多く、緊張もしましたし、色々な思い出もあります(笑)

―アガサ・クリスティーの著作のうち「これだけは読んでおきたいアガサ・クリスティーの作品5選」といったタイトルでご紹介いただけないでしょうか?
どこから読んでも面白いので全部読んでください(笑)
まず、トリックが一番大胆な『アクロイド殺し』、『オリエント急行の殺人』、『ABC殺人事件』、『そして誰もいなくなった』この4作品はテッパンの作品です。それぞれの作品に用いられているトリックが、のちのミステリに多大な影響を与えています。

ABC殺人事件』は連続殺人ものの先駆けで、挑戦状をマスコミに送り付け世間を騒がせていく連続殺人鬼というのは、のちのサイコスリラー、サイコサスペンスの常套手段です。トマス・ハリス(『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』)やジェフリー・ディーヴァー(『静寂の叫び』『ボーン・コレクター』)は皆この作品から始まっています。『オリエント急行の殺人』や『アクロイド殺し』は語ること自体がネタバレになりますが、後に沢山模倣されている作品です。『そして誰もいなくなった』は誰もがエッ!?と思うようなトリックで、応用もし易い作品です。
そして、もう1つ挙げたいのが『カーテン』です。彼女が亡くなる直前の1975年に刊行され、最後のポアロ作品として親しまれています。実際の執筆は彼女の全盛期である1940年代の戦争中です。いつ死んでしまうかわからないので、“私が死んだ後に夫と子供が困らないよう、私が死んだら刊行してよろしい”という条件で『カーテン』と『スリーピング・マーダー』の二作を金庫に残していました。

『カーテン』は、最後のポアロにスポットが当たっていますが、トリックとしてXXX(ネタバレのため秘密)が用いられています。1940年代のアイディアとしてはすごく斬新で、もっと評価されるべき作品だと考えています。ミステリとしてのおすすめは、この5作品でどれも抜群に面白いです。

その他にもっと読みたい方、長編のハードルが高い方には、さほどポピュラーではありませんが、トミーとタペンスが主人公の短編集『おしどり探偵』をおススメしています。長編『秘密機関』に初登場した二人が夫婦となり、当時の一流ミステリに登場する名探偵の手法を使って出くわした事件の謎を解いていきます。トミーとタペンスは、若いカップルとして初登場し、夫婦になり、その後、子供が生まれ、成長してまた二人になり、最後は老人ホームに入って事件を解決していく。二人の人生の流れに合わせて、だいたい10年周期に新作が出版されました。クリスティー自身の足取りに合致する所があり、彼女も好きなキャラクターだと語っています。だからこそ、長い間に渡ってポツポツと書き続けられたのだと思います。映像化もされていて、最近では『アガサ・クリスティー トミーとタペンス―2人で探偵を―』(英・テレビドラマ)は2015年にNHKで放送されていました。

春にして君を離れ』を読んでクリスティー自身に興味を持った方は、一度自伝に目を通してみると面白いと思います。『アガサ・クリスティー自伝【】』で異常に長いですが、当時どんな風に暮らしていたか、ミステリを書き始めたきっかけ、晩年に至るところまで多くのことが語られています。失踪事件の真相など肝心なことは避けていますが。自伝より手に取り易いのが『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』です。夫と一緒に中近東へ考古学の現場に調査へ行った時のエピソードをおさめたエッセイ集。タイトルは彼女が発掘品に語り掛ける言葉なのですが、この作品は長くないし、彼女の本音もあって面白いと思います。砂漠でミステリを書くのは集中できていいけど、砂嵐が面倒くさいとか。クリスティーファンでも読んでない人も多いですが、興味深い一冊だと思います。

夏休みを過ごす子ども達にもおすすめの作品があれば教えて下さい。
私がはじめてクリスティーを読んだのがちょうど小学生の3、4年生の頃。子供向けの『ABC殺人事件』でした。当時は、なぜABCの順番なのだろうと驚き、トリックに引っ掛かり、これはすごいと興奮したのを覚えています。『ABC殺人事件』、『そして誰もいなくなった』辺りは読みやすいと思います。

読書ログ会員に向けて、メッセージをいただけますでしょうか。
(読書ログ会員の感想やコメントをご紹介)
皆さん非常によく読み込んでいらっしゃいますね。この本で何を伝えたかったのかは本人にしか分からないし、受け取り方は読者一人一人に委ねられています。それぞれが感じた胸の内次第でいいのだと思います。
一つ、「女性向けの本なのでしょうか?」とありますが、女性向けに限るかと言えばそうではないと思います。彼女に影響を与えるのは夫ですしね。結婚して妻との間に距離を感じている方には是非読んで欲しいです。私自身も、子ども達に対する考え方の違いにしても、こういうことになってはいけないと痛感しました。夫や父親として本作に触れ、色々と考えた方がいいぞと思わされました。女性の方が共感しやすいかもしれませんが、男性も読めば何か考えさせられるものがあると思いますので、男女問わず沢山の方に読んで頂ければ幸いです。


<編集部より>
私達では想像もつかないトリックを次々と生み出し、後のミステリに多大な影響を与えているアガサ・クリスティー。本作『春にして君を離れ』に触れ、クリスティー作品を熟知する川村さんのお話を伺うと、彼女への興味が益々高まりました。「さあ、次はどんなトリックを読者に投げかけてみようかしら」。そんなクリスティーの声がどこからともなく聞こえてくるような気がします。

(株)早川書房 -クリスティー文庫ー でクリスティー作品をチェック

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※読書ログ会員の評価・感想・ネタバレ※

平均評価 4.4点 (2018年8月30日更新)
・人間性をするどく見つめるクリスティの非ミステリー小説。考古学者の夫と共にアフリカや中東へ実際に旅をした経験が生きています。男性なら歴史や自然や哲学に目が行くことでしょう。リアルな自己の内面へと向かうという切り口が新鮮です。それもエッセイという形ではなく、ドラマティックな小説に作り上げてしまうなんて。クリスティの才能を見せつけられた気がします。
・過去にも他人からの忠告はたくさんあったはずなのにすべて自分の都合の良いようにしか解釈せず問題に正面から向き合ってこなかったのだから自業自得とはいえ、この先の彼女の人生が気の毒で仕方ありません。でもせっかくの気付きを無駄にして、また同じ選択をしたのですからどうしようもない・・・夫も夫だ、と思わなくもないですが、でもロドニーもきっと今まで多くの助言をしてきた上で、あきらめの境地に至ったのだろうな、と思わずにはいられません。だって、いくら夫婦とはいえ、他人の心を変える事は相当に困難ですから。
・悟り切れない人間の哀しさ。子供たちは離れるだけで、乗り越えることができていない。ロドニーはレスリーに憧れていた(愛ではないと思う)。一番悟っていたのは、レスリーだったんじゃないかな。悟った人への憧れ。悟った人はすっきり明るく生きるのです。見方によっては、小説はみんな悲劇です。「この世は苦」をまざまざと見せてくれる。でも、それを学びにして幸福への道を歩きたいと思います。自分を静かにじっくりと見つめる時間をもった方がいい。慈悲の心を育てた方がいいと思います。苦だけど無常。久しぶりに一気読み。名作です。
・救いは結局ジョーンのみならず、夫ロドニーや子供たちも彼女と向き合う勇気がなかったことかな。彼女だけのせいではない。そう考えているうちに、影の主役はレスリーではと思ったりも。女性向けの本何でしょうか。その辺はわかりませんが、夢中になり一気読みでした!

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