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読書ログ会員の皆さん、お待たせしました!
翻訳について、「この作品を私はこう理解しましたと自分の理解を書いています」と語る土屋さんに、『わたしを離さないで』の読書ログ会員の感想を伝え、土屋さんなりの理解を教えて頂きました。

「具現化していない科学技術やシステムを描く際には、普通は近未来に設定すべき舞台が90年代末のイギリスが舞台となっている」点について(月うさぎさん)

イシグロ氏は、書きたいテーマを思いついたら、それを書くためにはどんな舞台設定がいいかをとことん考えるそうです。いい舞台設定を思いつけばすぐ書けるのでしょうが、それを思いつくまでに随分時間がかかるみたいです。

『わたしを離さないで』の場合は、初め、核戦争後の世界を想定して書こうとして、うまくいかず、少し放っておいたようです。そして、何年後かはわかりませんが、クローンの着想を得て、これなら……となって作品を仕上げたそうです。

最新作『忘れられた巨人』は、『わたしを離さないで』を書き上げてから10年後に出ました。やはりいろいろとやってみたのではないかと思います。竜のいるファンタジーの世界に行きつくまでに、10年かかったということでしょう。

20世紀末、1990年代を舞台として選んだことの裏には、へたに未来の物語にして、未来はこうなるという予言的なニュアンスがまとわりつくのを嫌ったということもあるかもしれません。 

提供者を施設で管理すればよいものを、なぜ社会に出す必要があったのか? この点で合理的説明は意味がないことを鑑みた時、小説は人間をいかに存在感をもって描けるかに尽きるのではないか?(月うさぎさん)

たしかに、施設内で飼育するだけでは動物の物語になってしまい、人間の物語にはなりませんものね。キャシーらがいたヘールシャムにはエミリ先生がいて、クローンの子供たちにも魂があることを証明し、それを磨いてやりたいという方針でやっていましたから、その子供たちがやがて社会に出て、しばらくは人間として生きるという展開にさほど違和感はありませんが、たしかに「作者であるイシグロ氏が子供たちを社会に出すと決めた」こと以外に合理的な説明はつかないかもしれません。もちろん、読者としては、人間として生活させないと、人間の臓器として使えるものにはならないんだろうとか、いろいろこじつけることはできるでしょうけれど。

欧米では、この子供たちはなぜ逃げださないのか、反乱を起こさないのか、という批判がずいぶんありました。ちょうど同じころに『アイランド』という映画がつくられて、こちらはまさに反乱を起こして、逃げだすクローンを描いていましたからね。『わたしを離さないで』でも、クローン人間には生殖能力を持たせないようになっていたみたいですから、ほかにも何らかの遺伝子操作があって、逃げだせない仕掛けが施されていたとも考えられます。でも結局のところは、これも作者の判断でしょう。イシグロ氏としては、運命を甘んじて受け入れる人々を描きたかった――それに尽きると思います。

死と苦しみが運命づけられている人々の物語であり、人生そのものを描いている(あさ・くらさん)

上でも言ったとおり、それがイシグロ氏の意図でしょう。クローンにはごく短い生しか与えられませんが、普通の人間だって、多少長くても限られた人生しか生きられません。同じことです。クローンは、わたしたち人間のメタファーです。

印象として、静謐さや常に抑制が効いているという感想(あさ・くらさん)をいただいておりますが、訳していてもこうした点を感じますか?

たぶん、どこかで感じているので、そういう訳になっているのだと思います。自分で翻訳しているときは、こういう小説だからこういう調子で訳そうとはあまり考えません。とにかく書かれていることを理解して、それを日本語で表現するということだけに集中しています。いわば翻訳機械になっています。

宗教感・文化圏の違いが作品に反映されているなどは感じますか?(ワルツさん)

どうでしょうか。よくわかりません。読者としてそういうところを感じますか?

イシグロ一家がクリスチャンかどうかは知りませんが、小さい頃は家族で教会通いをしていたと聞いています。イシグロ氏は教会の聖歌隊でリーダー的な役割もしていたそうですし、そういう経験がどこかに顔をのぞかせても不思議ではないかもしれません。

本の末尾近くで、車椅子姿のエミリ先生が出てきます。どこか具合が悪いようです。仮にエミリ先生が臓器移植をすれば助かるという展開になったとき、イシグロ氏はエミリ先生にもかつて自分の生徒だったクローンからの臓器提供を受けさせるだろうか、などとはふと考えます。どう思いますか。

男性の作者がどうして女性同士の駆け引きや嫉妬、願望についてこんなにリアルに表現できるのだろうか?(chiisakobeさん)

奥様や娘さんと暮らしていたわけですしね。奥様の発言権はかなり大きいようですよ(笑)。

『忘れられた巨人』では奥様からきついダメだしをくらって、さすがにむっとしたと語っています(笑)。やっぱり色々と試行錯誤していて、時代は5-6世紀だし、古めかしい擬古文のような文体で書こうと思ったこともあったみたいですが、それがダメだ、と。奥様は第一の批評家なのかもしれません。

イシグロ氏は、大学在学中や卒業後にグラスゴーのホームレス支援センターのようなところで長く働いていて、ホームレスの人たちと多く接触しています。その人たちとの交わりのなかで、感情の行き違いなども頻繁に経験しているはずです。そのすべてが文章の土台になっているのでしょう。

英語の原作の方もたまに読んでいますが、それとはまた違う日本語版のしっとり感があってそれもまた良いなと思った(pppさん)、との感想について。

論理の流れが破綻しないよう、論理が自然に流れるように、とは考えていて、そのためには原文の順序を無視することもあります。もっと若いときは、パラグラフを入れ替えるなんて乱暴なこともしましたが……当時は理解力が足りなかったのかもしれません。いまはもう少し寛容な理解ができるようになったというか、筋道のつけ方の幅が広がったような気がします。「しっとり感」と関係あるかどうかわかりませんが、心がけているのは、いまお話したようなことです。

イシグロ氏のお母さんは『日の名残り』の邦訳を読んで、とても気に入ってくださったそうです。訳者冥利に尽きますね。

※読書ログ会員の評価・感想はこちら


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